ヤマト屋 インタビュー

今回、記念すべき10回目に登場するのは、明治25年創業の老舗バッグメーカーの『ヤマト屋』さん。その四代目社長である正田誠さんにご登場願いました。蔵前との関わりから、モノづくり企業としての使命、商品に対するこだわりやご自身の趣味に至るまで、幅広くお聞きしました。


「隙間を埋めるモノづくり」で
お客様のウォンツに応え
感動していただくことが使命

浅草仲見世で創業されて128年目ということですが、約10年前に蔵前に本社を移した経緯を教えてください。

10年前までは東武線曳舟駅の高架下で営業していました。そこに永住したかったんですが、あそこは東武亀戸線の終点で、耐震補強工事が必要になり出ることになりました。行き場を失って探していたら、こちらの物件が空いていたというわけです。平屋でスペースを持っているビルがいいと思っていましたが、なかなかない。曳舟は平屋でこの5階建てビルの8割くらいの広さがありました。

スペースは今では倍くらいにはなったのですが、フロアが別れたために、トイレやエレベータホールが余分に必要で、結局2割増くらいの広さしかない。なのに、倍ぐらい家賃を払わないといけないという状態で、会社としては非常に厳しいなと。うちの前に入っていたところがあまり評判が良くなかったようで、オーナーさんに「うちは評判を上げますから、大丈夫です」と言って入居しました。

経営方針に「人は人のために共に生きてこそ人なり」「お客様のご満足と感動を求めて」「隙間を埋めるモノづくり」とありますが、「隙間を埋めるモノづくり」とは何ですか。

うちのような弱小企業だと、大手と同じマネをしても埋もれちゃって成功しないわけですよ。なにで生き残って行くかというと、「お客様が欲しいと思っている。だけど誰もやっていない」そういうのを隙間と呼んでいるのです。そこを追求していこうと。

いわゆるニッチ戦略ですね。

そうですね。「ニーズ」よりも「ウォンツ」を探しているってことですね。そういう発想のもとにモノづくりをする。そして、お客様に感動していただきたいという想いがあります。その大本のところでは、「人は人のために共に生きてこそ人間である」というものの考え方をベースにしていて、この考え方は三代目である父(正田喜代松・現会長)から始まっています。

確か、二代目がおばあ様でしたね。

正田乙女という祖母です。彼女はスゴイ大発明家なんです。天皇陛下から勲章を頂いたくらいで、発明ということに関してはスゴイ人だったんです。商売ということに関しては天才的。ものを生み出すことと商売に関しては、スーパーウーマンでした。

戦後間もない頃に、ポケッタブルバッグの先駆けである「ハイバッグ」を開発されて、それが売れたということですが。

そうなんです。発端は京成中山駅で、祖母が電車から降りて蹴つまずいた拍子に、風呂敷の中の物をホームにばら撒いたことがきっかけなんです。そこで、「これは何か物を運ぶ入れ物が必要だわ」ということで、風呂敷をなんとかできないか、四角い布一枚からそうした物を作れないかと考えた末に出来たのが「ハイバッグ」です。

「ハイバッグ」を手に取り説明する 正田さん

これ、見た目は三角ですけど、もともとは長方形なんです。広げると一枚の布であることがわかる。これはスゴイ技術なんです。ムダを出してはいけないという発想で、余った布でポケットを作ったり、リバーシブルになったり、傘入れのスペースを作ったりと、すべて主婦の知恵なんですね。しかも、もともと傘生地で、撥水、防水加工になっている。正直、これに勝てる物を今作れと言っても作れないですよ。

RaviRaviというブランド名で商品を展開されていますが、どういう特徴がありますか。

2003年度 グッドデザイン賞に輝いた「ラビラビ トラベルリュック」

RaviRaviは、もともとフランス語で発音は「ハビハビ」に近い。このRavi(ハビ)ですが、「嬉しい」とか「楽しい」という意味で、それを2つ繋げて「嬉しくて楽しくてたまらないブランド」っていう意味合いを込めています。ですから、「キキ」というサブブランド名も、日本語の「嬉々として喜ぶ」からネーミングしています。でも、漢字にすると中華そばの丼の縁についているマークみたいになってしまうので、カタカナにしたんです(笑)

グッドデザイン賞を2回受賞されていますが、それはどの商品だったのですか。

残念ながら今では廃番になっていますが、似た形のバッグはあります。それが元になってできたのが「Uポケットリュック」です。前のポケットがU字型になっているので、そんな名前になっています。

『ヤマト屋』さんでは、「職人育成プログラム」の導入で、1年に一人だけを育成するという集中的な取組みをなさっていますが、いつ頃から実施しているのですか。

7年前からです。東日本大震災で提携工場が2社くらい減ってしまいました。生産能力が激減して、ピンチという状況になったので、その年に工場を回りながら、どうやって効率を上げられるかを考えました。「条件を整えれば、20%ぐらいは生産性をあげられる」と仮説を立てて、各工場にお困り事を聞きに回ったんです。なかなか教えてくれなくて「なんで社長にそんなことを言わなければいけないんだ」と言われたりもしましたが、1時間ぐらい粘っていると、ぼつぼつ話してくれるんですよ。

「ヤマト屋は縫うところが多いんだよな」「これ、何で2重に縫わなけりゃいけないんだ。1回縫えばいいだろ、大変なんだから」とか。そういうのを細かく聞いて、企画にフィードバックするわけです。すると、「2重縫いしてたけど、確かに1回いらないわ」「じゃあ、すぐ型紙変更しよう」ということになる。そういうことを積み重ねるとともに、一方で少しずつ工賃を上げ、もう一方で少しずつ効率化を図ることをしていくと、「ヤマト屋の仕事は難しいから、イヤだ」と言っていた職人さんが勝手に集まってくるんですよ、面白いことに。

「安い、難しい、うるさい」と言われていましたが、うちが厳しいわけではなくて、お客様が厳しいんですね。お客様の要望に合わせて品質を管理しているんですが、それが年々厳しくなってきて、職人に対しても厳しくならざるを得ないわけです。それが、「ヤマト屋の仕事を受けてもいいや」と変化してくる。で、こういうことを突き詰めていけば、職人を育てられると考えたんです。企画のトップの人間が以前工場を経営していたので、その教え方のノウハウを伝えて行けば、職人を育てられるんじゃないかと。

工場を回っている時に、暗い工場とか、ミシンの置き方が間違っているとか、ノウハウを知らずに何十年もやっているところもある。ミシンは置く場所や置き方で変わってくるんです。量産というのに徹すると、やり方が変わってくる。そういうノウハウを聞きに行っていると、「これならいけるんじゃないか」ということで「職人育成プログラム」を始めたわけです。給料払って、その1年間で本生産を社内でさせようと。

修行させて給料を払うんですから、それを工賃のように見立てて、ちゃんと販売するとなれば、いい意味でプレッシャーになるわけです。ただ、練習だけだと意味ないですから毎日ノルマを決めます。教わりながら給料をもらえるわけですから、厳しくやりますよ。指の置き方から、力の加減、視線の置き方に至るまで。クルマの運転と同じで、近くばかり見ていると縫い目も蛇行しますから。

今までに7、8名は育てたということですか。

いえ、4人です。卒業したのは4名。そのうち2名は脱落。「一億総活躍」っていうのに出した一つの答えだったんですけどね。お子さんを抱えていても、介護をしていても自分の家で稼ぐことができる。自分の腕でという発想で始めたんですが、そういうのに引っかからなかった。でも、残りの二人は頑張っていますよ。

ところで、「大江戸清掃隊」はいつごろから始められたのですか。

「大江戸清掃隊」は2年目かな。入居してすぐ、はじめはうち独自で会社周辺の清掃をやっていたのですが、台東区から声を掛けられて、参加するようになりました。町内会や婦人会など何百という団体が参加していますが、企業で行っているところはそんなにないみたいです。

もとは曳舟で毎週していたことですが、「大江戸清掃隊」のような組織は墨田区にはなかったんです。うちの会社では、ドブさらいの他、商店街のゴミ集積所をキレイにしたり、荒地に花を咲かせたり、芝生を植えたりとかしていましたね。曳舟時代から含めると20数年間、清掃に取り組んでいます。東武鉄道からも感謝状をいただきました。

テディベアとの関わりは、長棟まおさんを通してということですが、いつごろから、どういうきっかけがあったのですか。

2016年の6月からテディベアの展示を始めましたが、長棟さんは私が理事をしている「日本テディベア協会」の会員さんで、テディベア業界では有名なコレクターさんでした。その方が亡くなられて、集めていたテディベアを遺族の方が寄贈してくださったんです。

協会は目黒の小さなマンションの一室で、狭くて飾るところがない。『ヤマト屋』で保管して飾ってくれないかということで、2階のショールームに飾ることにしたわけです。

テディベアは、結構ファンの方がいるのではないですか。

そもそもテディベアというのは、1902年に第26代アメリカ大統領だったセオドア・ルーズベルトさんにちなんでいるんです。
彼は軍人出身で、熊撃ちが好きだった。ある時、狩りをしていたら熊が全然いなくて、伴の者が手負いの小熊を木に縛って「大統領、あれを撃ってください」と言ったら、「かわいそうだから、逃がしてあげなさい」と言ったらしいんですね。それを聞きつけたニューヨーク・タイムズの記者が美談として書いたわけ。そこに挿絵もあって、「ルーズベルトが助けた熊のいい話」ってタイトルがつけられていた。で、なぜテディベアかと言うと、ルーズベルトは「ミスター・テディ」という愛称だったんですね。テディが助けた熊ということで、テディベアとなったわけです。

1902年から2002年に向けた100年間はテディベアはスゴイ人気でした。1902年にテディベアが生まれ、同時に当時ドイツのおもちゃ屋さんの夫婦が、子どもたちにもっと身近に遊んでもらえる何かを作りたいと、ぬいぐるみを縫った。それがテディベアの原型とされているんです。だから、ドイツとアメリカとで両方同時に「熊」というテーマが出来上がって来て、それがくっついてテディベアになった。生誕100年に向かって日本でもブームが来て、どんどんファンの人口も増えたけれど、100周年を過ぎると、逆にブームは凋落していってしまった。今のテディベアの価値というのは、よくわからないんです。

病院に入院している子どもたちにプレゼントしているという話も聞きましたが。

そのテディベアが、このクマちゃんです。光触媒の糸を使っていて、紫外線を受けると菌が繁殖しないので、病院に置いておいても大丈夫なんです。それに、熱消毒もできる。「テディベアの癒し効果」というのを筑波大学の小児科で研究していただいたこともあります。論文にはなっていませんが、どんな風にして子どもたちが使うのか研究して、癒しの効果はあるなと。

それをきっかけに、全国の小児病棟がある大きな病院にテディベアをプレゼントするということを始めました。筑波、東大、新潟こども病院、神奈川子ども病院、静岡子ども病院などに行きました。大変喜んでいただいて、涙出てきますよ。

そんな活動をしている時、3.11が起こって、被災した東北の子どもたちにと思って、知り合いの伝手で、「テディベアいりませんか」と聞いて、欲しいと言ったところに、私と会長でクルマを運転してプレゼントしに行きました。テディベア協会にはお金はないですから、交通費から宿泊費まで自前ですけどね。

福島はガイガーセンサーを持って行くとピーピー鳴るんですよ。そういうところも回って。園児が一切外に出られないという時期で、建物の中でずっと遊んでいるわけです。太陽の光に当たれないと、子どもたちはどんどん落ち込んで行く。そういう時にテディベアを渡すと、まあ喜んで、喜んで。何が嬉しかったかと言うと、子どもたちが喜んでいる顔を見ているお母さんや幼稚園の先生方が喜んでいるのを見るのが一番嬉しかったですね。あれには涙出そうになりました。

でも、ここ数年は受け入れてもらえず実現できていないんです。今、病院は変に厳しくて「病院にそんなものを持って来て、何をするつもりだ」、「あとからそれをネタに何かしようって魂胆だろう」って。今の世の中、イヤになっちゃいますね。

もともとテディベアは好きだったんですか。

いえ。小さい頃からぬいぐるみは好きでしたけれどね。ところが、2000年にベルギーの展示会場でこの生地(テディというサブブランドに使用している生地)に出合うんですよ。生地の見本市で、遠くから見て「なんだ、あの生地カワイイな」と思って、なにも考えずに「これ、ちょうだい!」みたいに用途も考えずに生地を仕入れ、バッグ作ったら、そこそこ売れて。

ベルギーの展示会で出合った生地を使った各種バッグ

売れていっている最中に、百貨店のバイヤーさんに見せたら、「これはいいです。正田さん、これは最低でも10年掛けて、もっと広がりのある展開を是非してください」と言われて、広げて行ったら、売れたんです。さらに、ギフトショーに出展した時に、テレビショッピングのバイヤーさんの目に止まって採用となるわけです。その翌々年の2004年の10月に私はテレビショッピングデビューしたんですが、その翌年かな1日で1億4千万円売り上げました。

えーっ!スゴイですね。

それがマックスですけどね。1万個で4トントラックで満タン。今思えば夢のようなことも味わいました。ずいぶん利益も出させていただいたので、テディベアで恩返しができないかと考えて協会の理事になったんです。そこからテディベアとの切っても切れない仲が出来上がったというわけです。テディベアって、見ているだけで人を癒すんですよ。でも、それだけじゃなくて、励まされるんです。

入院中の子どもたちが何をしているかと言うと、たとえば、「はい、大丈夫ですよ。お注射しましょうね」とか、「○○ちゃん、遊びましょうね」ってテディベアにやる。それはすべて自分で、自分の心に話しかける。患者さんであるお子さんが、このテディベアで擬人化するんです。「なるほどな」と思って。で、テディベアを見ると元気になる。癒されるだけだと、うちのバッグも売れない。やはり、元気になって外に出てもらいたい。そういう意味では、テディベアは癒しと励ましの象徴なんだと思っています。

お客様からのクレームを
価値に変える「お客様価値創造室」

「お客様価値創造室」での取組みは素晴らしいと思いますが、お客様からのクレームで、特に印象に残っていることはありますか。

バッグの中の洗濯表示。クレームをきっかけに「3.」の項目が加えられた

うちのバッグは、ポリカーボネイトの合皮を使っていて特許も取っていますが、洗濯機で洗えます。それで、黒い色のバッグを手洗いされたお客様から「手洗いしたら、白くなっちゃった」と、クレームになって戻って来たんです。バッグを見てみると、確かに白くてまだら。匂いを嗅ぐといい匂いがする。で、濡れた綿棒で拭くとキレイになるんです。わかります?洗剤が残っているだけで、要するに、すすぎが足りないだけなんです。

キレイに洗って、元の真っ黒に戻ったバッグを「すすぎが足りなかったようでございます」と一言添えてお返ししました。これで終わると一般の企業と変わらず、笑い話で「変なお客さんがいたよ」で終わってしまうんですが、「クレームって、何かを我々に伝えようとしているんだ」って発想をしようと考えているので、そこで私は3日間悩んだんです。「何かあるんだろうな」って。

考えて気付いたのが、バッグの中の洗濯表示。バッグで洗濯表示のあるものは他にはないんですけどね。この中の3番目に「手洗いの際は洗剤が残らないように十分すすいでください」という文言を加えました。「ああ、わからないんだ」と。

今の洗剤は泡切れがいいから、すすぎが少なくて済む。でも、昔ながらの粉石けんだと、洗剤の何がヌルヌルって、界面活性剤ですからね。あれは、一度付くと非常に落ちにくい。本来は汚れの再付着を防止するものなので、洗濯機の中の汚れた真っ黒の水の中から、洗濯物を取り上げても白いじゃないですか。ところがコイツを落とさないと、ヌルヌルがずっと取れなくて、下手するとかぶれも起こしますからね。粉石けんは特にすすぎが大事なわけです。

「ああ、そうなんだな」と思って、あの文言を加えて行こうと。二度と同じクレームが来ないようにすること。これを価値と呼んでいます。そういう発想。それが一番面白いエピソードですね。

日大芸術学部の写真科を卒業なさっていますが、写真家やカメラマンを目指していたんですか。

大学に通っている最中に私には無理だと、プロにはなれないと思いました。写真でプロは大変です。すごい才能かコネ。スーパーコネかスーパー才能ですね。うちの学科の同級生200人くらいの中で写真家になったのはたった一人かな。でも、写真の技術を学ぶことにかけては、スゴイ。写真だけしか勉強しなくていいくらいですからね。1年で一般教養は終わって、2年以降は本当に写真のことばっかり、徹底的に技術を教えてもらいました。ただ、今行っていたらもっと違うでしょうけどね。

当時はまだ銀塩なんで、「チャプチャプ」を味わえたのは良かった。今の子たちはそういう意味では不幸なのかな。銀塩の世界をほとんど勉強せずに、デジタル化の方へ行かないと今は取り残されますからね。でも、カラーの技術や三原色とか、要するに印刷の技術ですよ。BGRとかYMCKといった光とインクの方の三原色、そっちの関係性とかを勉強出来た。何を足して、何を引いてというのをひたすらカラーでやって、自分の色を作る。そうした勉強は今も活きています。あとは、ライティングだとか、焦点距離と絞りの関係性だとかね。

就職先に銀座『伊東屋』を選んだのは、なぜですか。

自分の会社にすぐに入るのは、父親からも「NO」と言われていたし、私も入りたくなかった。折角だから、いろんな世界を見たいのもありましたし、自分の会社にいきなり入るのも楽な道ではないので、逆に。経験を積まずに入る恐ろしさもある。丁稚奉公のように入るのもいいが、息子が入ってくれば周りはそうは見ないですからね。で、自分で探して来いと。

いろんなところを受けて、とにかく接客がやってみたかったのもあって『伊東屋』を選びました。配属されたのは、画材売場。私、絵は描けないんですよ。絵心ゼロで描けなかったから写真科に入ったんですけどね。画材売場に配属されたのが本当に苦しくて。嫌いなんですから、絵が。しかも、同期は男は私一人で、女性は全員美大かデザイン系の大学を出ているプロフェッショナルなわけです。

私が担当になったのは、版画、粘土、シリコン。版画には凸版、凹版、孔版、平版という4つの印刷技法があって、これを学びながら道具を売っていたんです。当初は木版画しか知りませんけどね。平版って、なんで平なのに版を起こせるんだって。水と油の反発する力を使ってとか、凹版、グラビア印刷の技術とか、そういうのを手先でやる技法で勉強出来たんです。道具も自分で勉強して、お客様が欲しそうだなというのを自分の判断で仕入れて販売したりもできたんです。今、そんなことをしたら上司に何を言われるかわかったもんじゃないですけど。

同時に「プリントゴッコ」販売の担当者になったんです。プリントゴッコも孔版印刷で、理想科学工業に何度も通って営業マンからその技術を教わり、どういうインクを使っているのか、どういう理論で印刷できるのかを勉強しました。おかげで詳しくなって、お客さんに説明しながら売るので、そりゃあ売れました。全力で得意なデモンストレーションを行うので、その時期、1日100台とか日本一売ったということで、テレビの取材が来たり、新聞に載るわ、ラジオも来るわで大騒ぎでした。

その時に販売を通じて学んだことが、今ではインクのことや印刷技法とかが異常にわかることにつながっているんです。生地屋さんとのやり取りが苦痛じゃないわけですよ。「これ、溶剤なに使っているんですか」とか。生地屋さんの工場に樹脂屋さんまで呼んで会議をやるんです。そう言う意味では、『伊東屋』で培ったことが大いに役立っていますね。

いろんな技術を取得出来たことと、同期をはじめとする友だちづくりが出来たこと、外国人が怖くなくなったことは、良かったです。毎日、海外のお客さんが来るんですよ。特に英語圏の人が多かったので、カタコトでも英語をしゃべった。なんとかなるもんだということは、その3年間で学べたので、一人で海外へ行くのも平気になりましたしね。

正田さんはクルマ好きということを伺っていますが、特にスバルファンらしいですね。
車種はなんですか。

そうなんです。もう4台買い続けています。今じゃ、立派なスバリストですよ。
今はレヴォーグのSTI。吸気と排気をいじって、コンピュータはいじっていないんですけど、いじったのに相当するぐらいの、ある装置を組み込んで、馬力を上げています。今のレヴォーグは、2ヴァージョン前なんですけど、スゴイですよ。買い換える気にならないですね。パワーはスゴイし、馬力は300軽く超えていて、一応、出てるのは280くらいなんですけど、320~30は出ているんじゃないかな。アクセルを踏むだけ出るというチューンナップをしていて。そもそものSTIが素晴らしい脚まわりなんで、脚まわりとかは全然変えていませんけどね。

今は自動運転は第2段階ですが、第3段階になると、ずっと手を離していても大丈夫になるようです。第2段階は補助、20秒間は手放しで運転できる。高速道路では東名、中央、関越なんかは大丈夫ですね。カーブがきつすぎて首都高はダメですけれど、直線に近い道路であれば、60kmから114kmまではずっと自動で行ける。前にクルマが入れば、そのクルマの速度に合わせるし、いなくなればまた勝手にスピードを上げる。

クルマはそんなに進化しているんですね。

今の私の直噴タイプのレヴォーグは2リッターなんですけど、金属音が鳴るんですよ。6500回転ぐらいのところで。「シュイーン!」って、GTカーみたいなブーストのかかった音が聴こえるんです。もう、あれ聴くとたまらないですね。通常で乗ってると5速なんですけど、それをスポーツモードに変えると6速になって、さらにスーパースポーツモードにすると8速に変わるんですよ。これはもう、他のクルマが虫のように感じるくらい抜いて行く。それをフルに人や荷物を載せた状態でできる。

今のレヴォーグはバケモノみたいですよ。いいクルマですよ。20秒間は手を離していられる。レヴォーグの前はレガシーを3台乗り継いでいたんですが、レガシーがなくなっちゃたんで、切り替えたんです。サイズも大きくなって、擦っちゃいましたけど…。っていうくらいスバリストです。

クルマ以外に趣味はありますか。

カラオケとギターですね。ギターを弾きながら、カラオケボックスでカラオケの演奏に合わせて歌う「誠と歌会」というのを時々催すんです。私と一緒に歌を歌いたいという人と聴きたい人を集めて。いずれ「誠と歌会」で100人のパーティをやりたいですね。歌いたい人だけが壇上に上がって、私が全曲演奏するんです。ギターって、コードが分かれば、弾けちゃうんですよ。

曲のジャンルはなんですか。演歌でも、歌謡曲でも、ポピュラーでも?

リズム取って、楽譜見ながら、たとえ聞いたことなくても、「あ、この感じだな」って分かれば弾きます。あと、演歌とか日本の歌であれば、コードが分かれば弾けちゃう。ただ米津玄師の「馬と鹿」は凄まじく難しい。今年、結局カラオケのチャートでベスト10にはランクインほとんどしなかったんですよ、難し過ぎて。「Lemon」の方が歌いやすかったからランクインしましたけどね。「馬と鹿」はリズム取りがむちゃくちゃ難しくて、ギター弾いてても合わない。あの人の歌、いい曲ですけどね。ノリノリで歌いますけど(笑)

もともとはどんなジャンルが好きだったんですか。

フォークとか、ニューミュージックとか。それこそ、オフコースとか、アリスとか、高校生の時にちょっとかじりました。大学入って、ちょっと弾きましたけど、それ以降一切フォークギターは弾いていませんね。で、エレキギターを、2018年の5月に始めたんです。カラオケで人が歌っている時に、タンバリンでギターのリズムを刻んでいて、これ、弾けたら楽しいだろうなと思って。エレキギターだったら、アンプにつなげなければ音漏れも気にしなくていいし、中古を買って弾いてみたら、意外と出来そうだったんですよ。今はインターネットで楽譜はいくらでも見られるので。

カラオケの他にも、趣味はありますか。

他にはスポーツも好きですね。水泳、スキー、テニス。水泳は今はほとんどやらないですが、大学時代はインストラクターをやっていました。今は、冬場のスキーですかね。だから、スバルなんです。私のクルマで行けないところは、誰も行けないと思ってるくらいですから。年末年始はとにかく山で過ごすというのが30年続いていますね。正月を家で過ごすことがない。スキーチームを作っているくらいですから、家の者を残しても行っちゃう。

蔵前でオススメのところはありますか。

コフィノワ』さん。最高ですね。あのコーヒーはスゴイ。今日、うちがオリジナルでコーヒーを作っている、コーヒーメーカーの鈴木コーヒーが来ていて、新商品の話をしていたんです。ここは安くて、『コフィノワ』さんの3分の1かな。このメーカーの豆もすごく美味いんですけど、『コフィノワ』さんの味には太刀打ち出来ないですね。ついにうちが勝てないコーヒー屋さんが出来てしまった。蔵前3丁目でウチのコーヒーを抜けるところは無かったんですけど。やっぱり、『コフィノワ』さんはスゴイ。逆立ちしても勝てない。

この『蔵前うしろまえ』の取材を始めたのも、『コフィノワ』さんが最初でした。2時間も取材させていただいて、前後編2回にわたって掲載させていただきました。

本当に『コフィノワ』さんのこだわりは尋常じゃないですからね。あそこの場所は以前は何をやってもうまくいかなかったようで、ころころショップが変わっていましたね。でも、『コフィノワ』さんになって、「お客さんが入ってるよ!」ってなって。

マツコもきましたしね。

ウチのところには誰も来ないですけどね、著名人は(笑)

最後に、これだけは言っておきたいということがあれば。

これって、なんの話でしたっけ?(笑)

「蔵前の魅力を発掘して、人と人をつなげる」というコンセプトで取材させていただいています。単なるショップの紹介ではなく、そこを営んでいる人にスポットを当てて、その人がどんなことを考えているのか、なぜ蔵前なのかなどをお聞きすることで、蔵前という地域の魅力をクローズアップさせることが目的です。

そうそう、ボランティア活動についてもう一言。ウチは昔から会社のある地域の清掃活動を続けて来たんですが、台東区の「大江戸清掃隊」に参加しているキモのところは、企業ボランティアであって、スタッフのボランティアじゃないんです。企業としてボランティアをしているのであって、うちのスタッフのボランティアじゃない。

どういうことかと言うと、これは業務なんです。ですから給料が発生します。掃除は仕事なんですから、もちろん全員参加。やるからには徹底的に仕事としてやる。仕事ですから、査定にも響きます。適当な掃除をしていると減点になります。看板背負っているから、みんな見られている。

人さまから「ありがとう」は言われても、「なんだ、テメエこのやろう」はないんでね。私は街路樹の剪定を勝手にやりますから言われますけど。でも、危ないから切っているんです。一番は、江戸通りですけど、通りを走るバスやトラックに当たらない高さに、枝を切り込んでいるんです。国道なので、国土交通省が剪定をするんですが、年に1回程度なんです。剪定しない年もありますから、バスやトラックにバチバチ当たるんですよ。バスなんか停留所に入る度にバチバチバチって音がする。万が一、窓を開けていて、子どもさんがいて、目に当たったりしたら誰が責任取るんだということになる。それが怖いんで、最近は高枝切鋏みの先にノコギリ付けてやっています。

中には切ると文句を言う人もいますが、そういう時には、「文句は台東区の環境整備課に言ってください」と言ってます。これらのことは、みんな業務でやっているんですけど、業務を超えたことをやっていますね。私の「大江戸清掃隊」での本来の仕事はガム剥がしです。でも、最近は剪定だけで精一杯です。これから冬の間は枝が伸びなくなるので、3月くらいまではガム剥がしに専念できますけど、あれも技術がいるんです。お陰様であれもプロになっちゃいましたけどね。

今日は楽しい話をたくさんありがとうございました。


ヤマト屋

住所: 〒111-0051 東京都台東区蔵前3-14-5
電話: 03-5829-6161
営業時間:【月~金】 10時~18時  土・日曜休
営業内容:バッグの販売、通販、卸
URL:https://yamatoya-tokyo.co.jp/

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